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コラム1 「十番切」と「幸若舞」

【「十番切」は中世に流行した「幸若舞」の演目のひとつ】
 「十番切」(じゅうばんぎり)は、中世の芸能「幸若舞」(こうわかまい)の演目の一つで、「舞の本」(まいのほん)に収められて版本として普及した。幸若舞とはいったいどのような芸能なのだろうか。
 戦国時代末期のヒーロー織田信長の伝記「信長公記」には、信長が今川義元を奇襲するために桶狭間に赴く前に「人間五十年、化天(信長公記では下天)のうちを比ぶれば、夢幻のごとくなり…」と舞ったという記述がある。美丈夫の俳優が謡い舞う姿を、TVや映画でご覧になった方は少なくないだろう。これが幸若舞「敦盛」の一節である。ほとんどの映像作品では能の仕舞(しまい)のように演出されているが、謡曲「敦盛」には、この一節はない。
 幸若舞は、室町時代に曲舞(くせまい)・舞々(まいまい)・舞(まい)(以下、曲舞と総称)などと呼ばれた芸能に、それを上演する集団のひとつ「幸若」の名を冠したものである。ほかに曲舞を演じていた集団として、「大頭」「笹屋」などの名称が記録されている。曲舞の記録は南北朝期観応元年(1350)に遡り、以後江戸初期までおよそ三百年間上演された。
 室町中後期の曲舞には多くのバリエーションがあった。世阿弥の伝書などから、室町中期の曲舞は、寺社縁起や慶祝、無常をよみ込んだ短い謡いものに近い内容だったと推測されるが、「舞の本」に収められた幸若舞の演目は、曾我物、源平物などの軍記物が中心である。
 幸若舞は、歌舞伎など近世芸能の源流とされているが、残念ながらいったん廃れ、現在では一部で復元上演されるのみである。その演じ方は、資料から推測するに、舞台には太夫・シテ・ワキ三名(二名の場合もある)の舞手と一名の鼓方が登場する。舞は太夫の朗吟をシテとワキが助吟するという形で進行する。動きにはあまり変化がなく、前後に移動するもので、吟じ方は、節回しよりリズムが重んじられるという。