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コラム6 醜くない律師・哀れでない小町

  
【醜くも深刻でもない律師・哀れでも醜くもない小町】
 第百三十四段は、鏡でつくづく顔を見て自分の醜さを憂えたある律師が、人と交わることを止め、勤行以外は引き籠っていたという話で、兼好はこれを己の醜い部分を知り、それにふさわしく身を処した好ましい例として挙げる。

 現代から見ての事の当否はともかく、この挿絵の律師は自身を嫌悪するほどの醜貌にも、鏡を厭い引き籠るほどの衝撃を受けている所とも見えない。構図のお手本となった『なぐさみ草』の同場面の律師は、顔いっぱいに皺をよせ、ひん曲げた口で鏡を睨みつけるのだが、明星大学本からはそのような険しい雰囲気は感じられず、むしろ鏡に向かって微笑んでいるようですらある。

 同じことは第百七十三段の小野小町についても言える。絶世の美女であった小町の哀れな末路を記した『玉造小町壮衰書』の年代と著者を考察する段で、他本の挿絵では乞食をする場面など、老後の無残さが表されている。『なぐさみ草』の小町も、顔も手足もどこが目鼻か判らないほどの皺に覆われた恐ろしげな姿に描かれる。

 しかし明星大学本の小町はその構図に基づきながらも、あまり哀れには見えない。破れ傘と膝丈の着物で、口元に皺こそあるものの色白くふっくらした元気そうな老女で、杖を小脇にすたすたと山野を歩く姿は、まるで近頃の中高年登山のご婦人のようにさえ見える。

 明星本では、文中に醜いと書かれるものも、露骨に醜くは描かない。暗い内容の段であっても、挿絵の人物はほんのりと笑って、見て辛くはならない。それが注文主の意向か、絵師の配慮なのか、興味を惹かれるところではある。